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| 「商品は自由である」 |
商品学研究/京都産業学特論U 担当
経営学部 教授 守屋 晴雄 |
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数学の集合論で著名なゲオルグ・カントール(1845年〜1918年)は、「数学の本質は、自由であることである」と言った。この言葉には深い含意があるであろうが、この言葉の吟味が当コラムの目的ではない。この言葉のひそみに倣って、私は、常々、「商品は自由である」と考えている。しかもこれからますますそうなっていくであろうし、またそうならなければならないと考えている。この「自由である」ことについて考えてみたい。
売買という経済主体間の一種の交換の対象物である商品は社会的分業の進展を背景とする。製薬企業で新薬開発に腐心している担当者は、自分の、また、家族や親類縁者の病気を治癒させるために新薬を開発しているわけではない。
さて、市場において商品として成立するための制約要因は多々ある。ここで、「成立する」は、持続的に売れる、といった意味合いである。
まず、商品は買い手にとっての有用性の担体でなければならない。その買い手は、通常、ある程度以上は存在しなければならない。買い手の数は価格にも依存する。また、商品の生産や使用において自然科学的法則に逆らうことはできない。企業レベルでは、商品の開発などにおいて資金、技術、人材など所有経営資源の制約があることも厳然とした事実である。また、社会的なルールによる制約もある。他社所有の知的財産権による当該企業に対する制約はその一例である。商品はこれらの制約から自由ではない。
しかし、商品は、このような種々の制約の中にありながら、自由である。制約を守りさえすれば、自由であるという考え方は、たとえば、商品は「有用性の担体でなければならない」ではなく「有用性の担体であればよい」という発想、「自然科学的法則に逆らえない」ではなく「自然科学的法則を利用する」という発想に結び付く。前者の発想は、有用性の担体であるための特定の手段からの自由に着眼している。携帯電話機における写真や動画の撮影機能といった機能の付加は、有用性の内容に関する自由の1つの形態である。自動販売機にも、代金の一部を募金したり、無線LANの基地局となったり、災害時に飲料を無料提供したりする機能の付いたものが出現している(『日本経済新聞』2006年9月16日付け夕刊)。「余人をもって代えがたい」という言い回しがあるが、十分長期的に見ると、イノベーションの進展などを要因として、ある商品について、当初はそうであったかもしれないが、「‘余商品’をもって代えがたい」性格が希薄になっていくことが多い。
一方、自由であることによる問題が存在することも看過できない事実である。当該業界への参入規制の緩和などを背景にした激しい価格競争(値引き競争などの形態をとる)が商品の安全性を毀損するケースはこの一例である。ここで、商品はサービスを含んでいる。場合によっては、最低賃金ならぬ最低価格の社会的強制が必要であるかもしれない。このように自由が制約の必要を呼ぶことも十分ありえる。
しかし、本質的に重要なことは、制約は自由を支えるべきであるという点である。道路の交差点の信号は、確かに歩行者やドライバーにとって信号待ちという制約の面を持つが、その制約を通して彼らの通行の安全、ひいては通行の自由を支えている。交差点を立体交差にすれば、ドライバーらにとってその場所での信号待ちはなくなるが、そこでの右折左折が容易にはできなくなる(位置の高低を利用した立体交差は、二次元的解決からの自由という側面を持つが、ここではその問題性に着眼した)。
確かに時代を経ても変わらない商品、変わったとしても部分的な側面にとどまる商品は多い。しかし、このことは結果としてそのような商品になっているということであって、「商品は自由である」ということと矛盾するわけではない。自由中心の発想は、商品開発のみに適用される考え方ではなく、企業経営さらには人生航路にも適用される普遍性を持つものといえよう。
最後に、制約があるからこそ自由という概念が意味を持つことを注意しておこう。
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