昨今、あまりにも非倫理的・非道徳的な企業、行政、政治家の行動が目立つ。このため、企業や官僚組織、そして政党等の有している倫理と道徳に疑念が持たれており、同時にそのあり方にも多くの関心が向けられ始めている。
倫理は「人倫」と不可分離の関係にあり、東洋の思想としては、儒教にその基本理念(概念)を認めることができる。また逆にヘーゲルはその哲学的体系において“Sittlichkeit”の概念、その語源としてのSitteを重視した。儒教とへーゲル哲学のどちらにおいても、倫理・道徳の前提は、人間の「共同体(態)」における最も相応しい生き方の探究にある。つまり倫理観、道徳観を欠落させた社会では、集団の成立に関わる原理は変化し、人倫にもとる行為が日常化してしまうといえる。
経済活動とその倫理性および道徳性の関係については、M.ヴェーバーが「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」を始めとする多くの著書の中で考察を行っている。彼の学説によると、いわゆる近代資本主義は、反営利的な禁欲倫理が社会心理となっているような地域でしか発生しえなかった。つまり倫理観の高いプロテスタントは、神から与えられた天職として自分の職業活動に専念し、富の獲得が目的でないので無駄な消費をせず、隣人愛にかなう事柄のためにお金を使おうとした。このため、人々に必要な製品やサービスを生み出し、競争に勝ち残っていった。またプロテスタントのそうした行動は結果として、これまた意図せずして、合理的産業経営を土台とする、歴史的にまったく新しい資本主義の社会機構を作り上げていくことになった。
日本では経済活動とその倫理性および道徳性の関係は、どのように考えられてきたのであろうか。浄土真宗中興の祖としての蓮如上人の「真宗」教化において、宗教倫理と世俗倫理および信仰と世俗内禁欲がとりあげられており、この中に職業倫理の萌芽が見られる。江戸時代、京都室町の呉服屋で働いた後、「石門心学」の教えを広めた石田梅厳は「商いは正直に行えば、すばらしい行為である」と考え、儒教の教えと経済倫理を関連づけ、封建制下に商人道を説いた。ここに日本でも倫理観の高い近代資本主義の考え方を見つけることができる。
「日本的」な社会倫理を明確にするには、「日本的」な行動の原理を見つけ出さなくてはいけない。特に「日本的」な組織行動の原理が問題になろう。これには津田真澂教授の「状況倫理という価値観」の吟味が示唆を与えてくれると思われる。
企業・経営の倫理性獲得のための処方箋はどのようなものであろうか。最も大切なことは、社会のあらゆる分野、人間生活の全領域にたいする企業・経営の影響力の重大性に気づくことである。企業行動のすべては社会全体から注目の的になる。換言すればその「社会的責任」がいかに大きいかということを認識しないといけない。そして責任の重大性は倫理的自覚を基礎として、その上に成立する。
企業倫理は今まさに我々自身の当面する課題であり、極めて実践的な解決が要請されている。それが生起する場面はきわめて生々しい、そして、きわめて人間臭の漂う世界である。道徳、倫理は、実はそのような内容の問題であることを改めて認識せざるをえない。